私の行田発見記。2017.12.02弐八 「中川の碑」-中川と元荒川-
20171202
 行田市の長野地区、さきたま調整池(旧忍川)沿いにある「中川の碑」。ここで、かわいらしい河童の石像が、元荒川の歴史と埼玉県東部の水田地帯を流れる中川流域の特徴を紹介しています。元荒川ってどんな川? 熊谷市の佐谷田地先を起点として、越谷市の中島地先で中川に合流する延長約六十一キロメートル、流域面積二百十六K平米の、山岳部からの源流のない川だよと。

熊谷市の一場面その追加版『熊谷の星川』
20171129

 熊谷市街の「星渓園」の玉の池の湧き水から市街に流れる川が「星川」と呼ばれています。が、星川の源流は市街地北西部にあり、荒川扇状地の湧水が元だったといいます。そして、ここ星川の馬見塚にキタミソウの生育がしています。氷河期の遺存植物で貴重な草です。(環境省の絶滅危惧種に指定)。そして、星川は行田市域に入り、見沼代用水と名を変え、南へ下り、果ては、さいたま、江戸湾へと流れていきます。

熊谷市の一場面、その壱弐。大沼の弁天島『嘉禄の板石塔婆』
20170904
 熊谷の江南に静かな小さな公園にため池があります。ここ大沼の朱い橋を渡って弁天島にたどり着くと、日本最古の板碑と伝えられる 「嘉禄の板石塔婆」 複製品があります。そして近くの江南文化財センターには、本物の板碑が展示されているそうな

熊谷市の一場面その壱追従
20170817
 大蚕場『元素楼跡』 鯨井勘衛は日本を代表する養蚕技術の先駆者です。熊谷市の玉井に『元素楼』という大蚕場を作り、清涼飼育という画期的な養蚕技術を多くの人々に伝習したことで知られています。彼によって成し得た養蚕技術の向上が、関東地域での繭生産の増大をもたらし、富岡製糸場への供給を確固として下支えしたと言われています。ここ、かっての桑畑はブルーベリー栽培地として今も息づいています。 

熊谷市の一場面その拾。拾最終『熊谷の星川』
20170630

 熊谷宿★は星川を中心に荒川の伏流水(軟水)が至る所に湧き出ていました。江戸時代には藍染と白木綿の産地として発達し、染屋も相当数であったとか。『熊谷染め』の所以です。昭和20年に熊谷は米軍の空襲を受けて、星川でも多くの犠牲者がでましたが、今や星川は熊谷のシンボルとして再整備され、熊谷の「顔」となっています。★熊谷宿とは中山道六十九次のうち江戸から八番目の宿場。

熊谷市の一場面その九。
20170629
 荻野吟子は、1851年ここ熊谷の俵瀬村に生まれた日本最初の女医です。小さい頃から勉学に意欲的で、地元で学問の基礎を学び、その後上京、明治18年に『女医第1号』となり、東京で「産婦人科荻野医院」を開業。のちにキリスト教に入信し女性解放の先覚者として活躍しました。この地、利根川の史跡に彼女の面影を見ることができます。ちなみ渡辺淳一の小説『花埋み』のヒロインです。

熊谷市の一場面その八。
20170625
 空高くから街を、山を見下ろしてみるそんな、鳥になったような気分が味わえるのが「鳥瞰図」です。 ここ、熊谷駅に展示している『熊谷市鳥瞰図』は上越新幹線開通による熊谷駅改装を記念して制作されました。戦災で焼失する前の熊谷市の様子をうかがい知ることができます。因みに、昭和11年に吉田初三郎が描いたものです。大正から昭和にかけて日本の観光ブームによって初三郎の鳥瞰図の人気は高まり、その一貫事業とか。『熊谷染鳥瞰図手拭い』も顕在。

熊谷市の一場面その七。
20170618
 市内唯一の国指定文化財『宮塚古墳』 熊谷市内には163基の古墳があったと言われています。時代はおおよそ6~7世紀につくられた古墳が多いそうです。ここ『宮塚古墳』は熊谷運動公園の南側にあり、広瀬古墳群の一つです。一辺約20mの方墳の上に直径約10mの円墳を乗せた、高さ約4mの全国的にも珍しい上円下方墳です。こぶし大の葺き石で覆われており、頂上部には小さな祠が立っています。

熊谷市の一場面その六。
20170615
 絹が伝えるふるさとの歴史館「片倉シルク記念館」 こ記念館は、かっての片倉の製糸業(熊谷工場)の繭倉庫でした。昭和14年に片倉工業株式会社は富岡製糸場を合併しています。この熊谷工場は、平成6年にはラストファクトリーとしてその役務を終え、今では製糸の歴史と地域との関わり、先人達の残した足跡とロマンを伝える存在となっています。今や古を語る、世界文化遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」の一員です 。

熊谷市の一場面その五。
20170601
 久下橋を過ぎると『久下の渡し、冠水橋の碑 』ここ熊谷市の久下川河岸は、江戸との船運の起点として、また中山道を旅する旅人の船旅の起点として栄えた。そして、明治の鉄道開設とともに船運はすたれたが、対岸との交通の手段としての渡し場であった。その後、昭和30年に県道の一部として冠水橋が完成、平成15年、久下橋完成までその役割を果たした。 英泉作「岐阻道中 熊谷宿 八丁堤ノ景」画にある茶屋が、「みかりや茶屋」と言われている。がその跡は不明。

熊谷市の一場面その四。 上之「成田氏館跡」
20170528
 成田氏は、初代助高から九代親泰に至る四百余年を熊谷市上之に館を構えていました。ここ成田氏館跡は耕作され、住宅が並び、今は堀や土塁は見られません。が地元の話や地形図から判断すると二重の堀をもつ館と考えられます。親泰は戦国時代の武将、武蔵国忍城城主。あの「のぼうの城」で知られた忍城の「成田長親」のおじいさんです。1491年忍大丞を攻め滅ぼし、本拠地を忍城に移しています。

熊谷市パソコンクラブのCollabo Works
『手づくりマイ紙芝居・紬(つむぎ)の会』とのコラボが実現。 
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 同会は来る6月6日(火)、熊谷市市民活動支援センターにて、紙芝居リーダー養成講座を開催します。熊谷市パソコンクラブはその支援策として案内ポスターを制作、さらに、同会のホームページ、フエースブック、ブログを立ち上げ積極公開することにしています。

熊谷市の一場面。「愛染堂の復活」を祈願。
20170511 
 熊谷市の愛染堂は「愛染」が「藍染」に通じることから関東一円の多くの染物業者ら信仰した寺院。NHK大河ドラマ「花燃ゆ」でも出てきた、富岡製糸場の初代工場長の尾高惇忠藍香と号していました。彼直筆よる額が愛染堂に納められています。「藍香絵馬」です。「共進 成業 唯頼 冥護」とあり、多くの藍の製造業者が厚く信仰していたことが分かる貴重な資料です。

熊谷市の一場面その弐。『宇野千代と熊谷染め』
20170504
 宇野千代は明治30年山口県玖珂郡(現岩国市)生まれ。大正10年短編小説『脂粉の顔』で作家としてデビュー。その後、尾崎士郎をはじめ、東郷青児、北原武夫と、多くの芸術家との結婚遍歴。そして昭和33年に、横田伊三郎『熊谷染め工房(屋号:形治)3代目』に染色デザインを依頼している。女性実業家の先駆者「衣装デザイナー」として活躍の一面が今も残されています。熊谷市パソコンクラブより。

熊谷市の一場面。
20170427
 『坊っちゃん』は夏目漱石による日本の中編小説。 その主人公のモデルは山口県士族にして同支社出身の数学教師 弘中文一であるといわれています。その弘中先生は、明治33年から大正8年まで旧制熊谷中学(現熊谷高校)で教壇に立っている。その間、過ごした熊谷市内の『旧居』は、駐車場のここにあったが時代は移り昭和52に取り壊されている。惜しみないかぎりである。熊谷市パソコンクラブから。


 熊谷市パソコンクラブでサイト検索していたら「熊谷染めカタログ」を発見しました。詳しくはNPO法人熊谷染継承の会、熊谷観光局へ。 熊谷染めと熊谷駅前鳥瞰図のご紹介 明治・大正期には200軒を超える染め物工場がひしめいたという熊谷。荒川と利根川に挟まれた熊谷は、その豊かな伏流水の恵を 受けて古くから染め物業が発展。江戸小紋を中心に反物づくりが栄えたと言われています。江戸小紋 熊谷には京都や加賀で有名な「友禅」と江戸時代に確立された「更紗」「小紋」の伝統技術を持った職人がおります。 この三つの染めをあわせて「熊谷染(くまがやぞめ)」と呼んでおります。

熊谷市の関心事の総括

熊谷の関心事2017.07